高校生の頃僕はやっぱりどこにでもいる高校生で、その無限とも思えるエネルギーをぶつける矛先は、やっぱりどこにでもいる高校生らしく友人と馬鹿をする時間と部活。それに音楽。
ティーンの後半戦を端的に表すとするならば、いつだってそんな時間の中に多くの思い出がある。
いや、多くの思い出と共に音楽があるのか。


今、もう三十路に入って数年経っているのに久しぶりの学生生活に戻り、時々10年以上昔の心境にふっと戻る感覚に襲われる。
どうしようもないくらいの衝動に今は少しの焦燥もないまぜになって、でももはや共にふざけあえる友人に囲まれてもおらず、アルコールがなくても、田舎の高校でも、何がなくても楽しくていつも何かに必死だったあの頃とは環境が決定的なまでに違っている。
違っているのはもちろん環境だけでなく、僕自身も僕という人生を歩む中でいくばくかの経験を身につけ、視野が広がり、そして大人にもなった。


先日、課題に追われて文字どおり寝る間も削ってPCと文献とにらめっこをしていて、どうにもこうにも頭がパンク気味だったので、ふと、本当にふとGOING STEADYを聴いた。
Youtubeで聴くそれは本当に音質は悪く、カラオケのそれのように大声で叫ぶこともできず、ライブのそれのように臨場感もあるわけではなかった。

なのに。

どうしても再生を止められず、半泣きで3時間。
ただただ彼らの叫びに心震わせていました。


高校生の頃、親父になってもゴイステを神と慕うと言っていた自分が、実際に良い年齢になってもなお彼らの言葉、メロディー、叫びに心震わせる事が出来る自分であったことが嬉しかった。
僕はあの頃、目まぐるしい程毎日が新鮮なあの頃、そんな日々を純粋に生きることに必死で10年以上先の今の自分をこれっぽっちも想像してなくて、だからきっとこんな行き当たりばったりの人生なんだろうけど、でもやっぱりそうした生き方が根底に染み付いているのかなぁって。
生きていく中で、少しずつ生きることにも器用になって、少しずつ純粋であることや正直であることに不器用になってきて、そしてそれらは決して悪いことではなく、それ自体が生きているということであるんだと思う。

でも、それでも今回いつまでも変わらずにある思いに気づけたこと、そんな自分がいたことをちゃんと記しておこうと思う。
いつだって僕のベースはそこにあるはず。

思わず拳を握ってしまうほどの思いも、
支離滅裂な思考と意味不明な言葉の羅列も、
夜空に飛び立てそうなくらいの衝動も、
どれもこれもやっぱり僕には掛け替えのないもののようです。


瞳を閉じれば聞こえてくるだろう
拳握った少年の声が
鼻血が夕暮れ 滲んだ夕暮れ
霞む彼方はこの世の終わりか
カチカチ耳カス チカチカ星屑
彼の娘に会いに夜空に飛び立つ
指先に止まった赤とんぼ
どこへ帰るの赤とんぼ
僕らは若くて心が歪んだ
叫ぼう 叫ぼう 僕らは此処だ