理屈っぽくて鬱陶しいと思われる方が多いと思ってましたが、意外と反応の良かった前の記事(こちら)。なので宣言通りもう一つ理屈っぽい記事を。


前回の記事では日本人が他人を通して自分を規定しているという内容を書きました。日本人のアイデンティティは曖昧なもんなのだと。そしてそれは悪いことではないと。そんな話。
それでは、今回はアイデンティティ、つまり人に特化していた前回より幅を広げて日本人の物事全体の捉え方、事象の認知方法について、また言葉から考えてみたいと思います。
というか実はこの考え、だいぶ昔から思ってたことで、何人かの方は「あー、たまに話してるあれね」と思うかもしれませんが悪しからず。



今回のテーマで重要になってくるキーワードが「間(ま・あいだ)」です。
日本人にとってこの一語は非常に重要なんです。なぜなら、日本人はありとあらゆる事象をその関係性、つまりは事象と事象の「あいだ」、もしくはその事象が内包する「ま」をもってして捉えているんだと思うからです。


典型的な例を挙げます。
僕らは私たち人類のことを、学術等でなく日常生活では「人間」と呼びます。
まぁ「人」とも表現しますが。でも、人と表現可能なのにも関わらず、あえての「人間」という言葉があることから、日本人は「人」を個としてではなく、人と人との結びつき、「人間」として捉えているのが分かります。同じように、時間、空間、世間、手間、林間、行間、どれも実は間がなくても成立する言葉ばかりです。日本人には当たり前の言葉ですが、漢字本来の意味も学びながら日本語を勉強する外国人にはややこしい限りだと思います。だって「人」「時」「空」・・・でいいじゃないって話ですから。でも漢字一文字で表すと、日本時的にはなんとなく寂しげで、孤独な感じがしません?
で、試しにこの「間」のニュアンスを考慮して英語で考えてみるとします。漢字本来の意味から英語に直訳すると「between man(men)」。「人間」を単数と捉えると完全に意味崩壊です。なんだか人間が二つに割れてしまっている感じがします。複数形であれば、もはやそれは人間を指さず、間にある人間とは別の何かを指してしまいます。犬でもいるんでしょうかねぇ、と。「among time」んー、少し時間に近づきましたが、でもやっぱなんとなく2点のしっかりした区切りが感じられるような。。。概念としての時間ではないのかなぁ。と言う感じです。


ということで、やはり日本人の物の考え方は独特でどうしたって欧米の人には分かり難いと思います。だって、人も時も空も世も、連続するいくつもの事象の間に存在するものとして捉えるなんて、本当に理解出来る話ではないと思います。考えてもみてください、おかしな話なんです。なぜなら実際に「確かに」存在するもの(人、時)を捉えようとすると、なぜかその間(あいだ・ま)にある「不確かなもの」となって言葉(人間、時間)になります。そしてその「間」というものは当然目に見えません。
それでも、その不確かなものを介して確かな事象を捉えるのが日本人の能力です。これを読める方は多分みなさん日本人なので、日本人なら、でもわかりますよね。なんとなくであってもその「間」という広がりを。時という1点ではなく、時間という流れの中に身を置くのが、つながりをなしには生きていけない「人間」だとういう感覚を。そんな人間が作る社会が「世間」であり、そんな人間が行う所作一つ一つが「手間」なんだと思うんです。この感覚って、きっと仏教の輪廻転生から来てるのかなぁと思います。私(達)が生きているこの世界は連綿と繰り替えさる生死のくり返しの一部。。。。


おっと、なんだか長くなってしまい話がずれてきましたね。とにかく、日本人はここでも物事を1つの確固たるものではなく、大きな曖昧さの中で捉えています。そんな幅を持つ日本人の言葉と思考が白黒はっきりしたディベートに向かないのは当然で、英語で物事が進む国際舞台での議論でもかなり場慣れしないとやはり存在感を示すことは難しいと思います。ですが、前回の記事でも述べたように、僕はそんな日本人の感覚がやはり好きです。

世の中なんて白黒を完全にはっきりさせられることなんて一つもありません。価値観やモラルなんて場所や時代が変われば全く変わってしまいます。そんな中で大切なのが、この「間」、つまりは幅だとか曖昧さだとかだと思います。グレイゾーンとでも言いますか。でも、残念ながら近頃の日本はその幅がないように思います。アフリカの経験以来、時に僕が息苦しさを感じる日本はそこにあるんだと思います。

相手や物事を、その背景や自身との関係性も含めて深く理解できるからこそ、許し合い、譲り合い、そして相手を慮れるんだと思うんです。そんな日本人の良さ「惻隠の情」が今の日本に必要なんじゃないかと思うのです。